父親が他界した。忘れないうちに残しておこうと思う。

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亡くなる前までの様子とその後の動き方について

2023年11月には家族旅行でエクシブ湯河原離宮に連れていった。食事も食べていたし、普通に歩けていた。神社巡りもした。2024年の正月も一緒に過ごし、食事も普通に食べていた。

2024年2月くらいからか、お腹に水(肺の横あたり)に溜まるようになり、それを排出するための利尿剤の薬を飲むようになったあたりから少し瘦せ始めた。3月になると急激に痩せ始め、通常時70キロあった体重も50キロあたりまで減少した。

3月30日が孫の結婚式ということでなんとかそこまではという気持ちで頑張っていた。無事に孫の結婚式にも参加出来た。しかし、往復は親戚の車で横浜往復し、移動は全て車椅子での移動だった。この頃はまだトイレや自宅の二階にある寝室には自力で歩いていたし、階段も登れていた。

4月の頭ごろに埼玉病院に検査入院する。慶応病院でしか出来ないTAVIと呼ばれるカテーテル手術のために事前検査入院であったが、医師からの説明が少し死を意識させる言葉が入っていたり、病室周辺の騒音から一晩でほぼ勝手に退院してしまった。母姉が説得するも自宅に戻った。勝手に退院したこともあり、埼玉病院からは慶応病院への検査入院を勧められた。

4月15日に4泊5日の検査入院のため慶応病院に。しかし、当初の予定していた検査が体調悪く出来ず、しばらく入院して様子をみた。最終的に全部の検査が終わったのが4月28日くらいで、GWもあり、退院は営業日である4月30日となった。

28日の面会時には既に死相が出ているくらい瘦せ細り、目のあたりも陥没し、まさに骨と皮だけの状態であった。すぐにでも退院させたかったが、病院側があと2日だけ入院してもらって営業日である30日の退院を勧めたため承知した。

30日朝9時30分には迎えに行き退院した。もう自力歩行は出来なくなっていて、完全に車椅子移動に。自家用車に乗るのも大変な状況であった。

自宅に到着すると介護ベッドが無い事に気づく。まさか2週間で自力歩行が出来なくなるとは想像にもしていなかった。2階にも行けないので、とりあえず1階リビングのソファーで座ったり、横になってもらうしかなかった。急ぎ介護センターに対して介護ベッドの申し込みをしたところ、5月1日14時に搬入できる事になった。

自宅に着いてから

30日のランチは余り食べれていなかったがバニラアイスは食べた。食欲は余りないが、自宅に帰ってきてほっとしていた。ソファーに座ったり立ったりするので行動的にはきついが、精神的には楽になったと言っていた。少し体が匂うので下半身を調べてみるとウンチしていた。父はウェットティッシュで拭けばいいと言うが、おそらく退院の前日か早朝にしてしまったウンチがこびりついていてティッシュでは拭けない状態だった。母と私で全身の洋服を脱がし、そのまま両手を持ちながらオチオチ歩きで風呂場まで連れて行った。私もパンツ一丁になり、石鹸をつけたごしごしタオルで全身を洗った。生まれて始めてかもしれない。自分の父の頭をシャンプーし、全身を石鹸で洗う。気持ちよさそうな反面、立っている時間が長くなり息が苦しくなる。早めにソファーに戻して欲しいと言われ、ソファーに戻し、母と二人で大人用おむつを履かせたり下着や寝間着を着せた。そのころには息も激しくなり、かなりつらそうにしていた。介護生活が突然始まった事に気がついた。夕ご飯もほとんど口にすることが出来ず、夕方に飲んだゼリー飲料くらいであった。

私もそのソファーの横にマットレスを敷いて一晩一緒にいようと思った。父は身体が痛くて全く寝れない状況で、寝返りをしつつ、ソファーの右にいったり、左にいったりしていた。夜中の1時30分ごろ、母親が二階から降りてきて、私と交代した。夜中の3時ごろに父がお腹が減ったということで、姉が買ってきていたシュークリームを冷蔵庫から取り出し、夫婦で一緒に食べたそうだ。

翌5月1日、朝から母が朝ご飯を作った。おかゆに味噌汁、温泉卵、焼鮭、昆布、ヨーグルトなどが並んだ。昨日、全く食べなかった父は、おかゆは3口くらいだったが味噌汁を沢山食べた(8割くらい完食した)、温泉卵、ヨーグルトも全部食べた。あれ、調子が出てきたのかもと思った。食べている姿を見れたのは嬉しかった。介護ベッドが14時に来るからねとか、2日は病院に行くよとか雑談をしていた。

昼ごはんは、入院前によく食べていたというグラタンだった。スプーンで3口くらいでもう要らないと言った。ご飯を食べる前に薬を一つ、食べた後には10種類くらいの薬を飲んでいた。薬を分けながら2,3回に分けて飲む姿はいたたまれない。

私は仕事の電話がかかってきたので、一旦13時から13時40分くらいまで席を外し、また1階のリビングに戻ってきた。ソファーに座っている父の前にひざまついて母が父と手を握っていた。横から見た私は、手の平をマッサージしてあげているのかなと思った。あとで聞くと父から母に手を握れというゼスチャーがあったらしい。父が突然苦しそうな顔をして天井を見るので私は母のマッサージの力が強く痛がっているのではないかと思った。力を緩めてあげなよと母に言おうと思ったその瞬間に、父が更に天井を見つめ、頭が後ろに倒れるような形になった。母の手から父の手の力はなくなっていた。慌てて近寄り、声をかけたが動かない、心臓に耳を当てても動いていない。ちょうどその時にチャイムが鳴り、介護ベッドの担当者がリビングの扉の前でその光景と出くわした。私は混乱し、携帯電話でかければいいのに何故か家の固定電話から119に連絡した。電話の向こうから「お父さんをソファーから下ろして、下に寝かせて、心臓マッサージをしてください」と言われた。そこに立っている担当者に受話器を預け、伝言してくれと頼んだ。「5センチほど下に胸骨が沈むくらい押して」と言われたが、骨と皮しかない肋骨を私は2センチほどしか押せなかった。その前に心肺蘇生マッサージをやること自体初めてだった。人生初が父親の蘇生であった。救急車が10分くらいだろうか、やってきて救急隊員が6名くらいなだれ込んできた。

救急隊員に名前とか説明している最中に、蘇生を横目で見たが本当に5センチくらい下に押していた。その後、心肺計の波形が少し動いた。そのまま救急車に乗せ、埼玉病院に運ばれた。姉は14時ちょっと過ぎに自宅に着いたが、着いたときには自宅前に救急車や消防車が止まっていたという。母と姉を救急車に乗せ、私は自家用車ですぐに追いかけた。緊急治療室まで蘇生を試みたが、波形はもう0~15くらいになっていた。母と姉と私で最後に大きな声で父に呼びかけた。「お父さん、爺さん」大きな声で呼びかけると波形の数字が40とか60とかに上がり、喉のあたりや口もとが少しだけ動いた。確実に声は伝わっていた。最後に戻ろうとしたのであろう。波形が140くらいまで一瞬だけ上がったと思うと、そのあと横一線の線になり、数字がゼロとなった。

5月1日 15時35分に帰らぬ人となった。母と姉は泣き崩れていたが、私はこれから始める未知な事に対する不安が襲ってきたが、平然を装おうとしている自分に気づいた。

息をひきとるとすぐに動かないといけない

病院のスタッフより病院指定の業者にするか、自分で業者を呼ぶかと問われる。病院指定だと高額になると聞いた気がして、咄嗟に自分で探しますと答えていた。頭の中で「小さなお葬式~」というメロディーが流れ、自然と検索した小さなお葬式ダイヤルにかけていた。テレビCMの凄さを身を持って経験した。小さなお葬式は単なる代理店で、そこのスタッフが病院や実家周辺の葬儀会場や葬儀場などを紹介する制度になっている。通夜、葬儀も友引には行わないので、そこを外した日程を組まれるのだが、GWのど真ん中につき、なかなか見つからない。富士見台駅から徒歩8分程度の葬儀式場を案内される。そこが良いところなのか、しょぼいところなのかすら分からない。代理店が指定されたところでこちらは受けざるを得ない。前々からこの葬儀会場でとか、この火葬場でとか指定を受けていればそこを指定するが、基本はそんな話は生前にしないであろうから、その場で決めていく事になる。

通夜は5月5日、告別式は6日とGW中に設定された。担当の営業が私に張り付き、亡くなった夕方から打合せが始まる。時間、火葬場、参列する人数の目安、祭壇の花の種類、棺、通夜後の料理、葬儀後の精進落としの料理、香典返し品などなどその場でどんどん決めていかないといけない。それから同時進行で会社への連絡、親戚への連絡、ご近所への連絡など故人が生前交流のあった方への連絡をする。

年金協会や生協などの団体に入っていると割引制度等があり安くなることを後で知るのだが、亡くなった当日にそんな事を思い出す訳がないのだ。まさに事前準備が必要だった。

小さなお葬式経由でお願いすることした葬儀屋と打合せをしつつ、遺体を霊柩車に乗せて自宅経由で式場の安置室に運ぶ。自宅に一旦戻すのが一般的らしいが、うちは狭いので置いておく場所がない。自宅を経由しつつ、安置室に運ぶことにした。線香をあげた後はまた打合せとなる。もろもろの打合せをして帰宅するころにはもう夜遅い。帰宅すると遺影にする写真を探す。素敵な笑顔の写真を見つけ、業者に翌日渡す。背景や洋服や肌つやなどデジタル加工でうまくやってくれる。ブルーのスーツに紺のネクタイ、白ワイシャツを着せてもらうことにした。メモリーコーナーを設置するので、故人の昔の写真や趣味のものを集める。社交ダンスが好きだった父の昔のダンス写真や旅行写真を家から探す。棺に入れるものも一緒に探した。

次の日、次の日と日程が来るたびに、この人に連絡しようとか、この人に連絡していない、いやこの人は連絡しなくていいなど大騒ぎとなる。家族葬だった葬儀もだんだん人が増えてきて一般葬へとなっていく。まあこういうものだろう。

通夜当日

通夜当日、式場に行ってみると親戚から4台、会社や上司から3台、喪主と家族一同、大学の部活同期一同からと合計10台の供花が飾られていてとても華やかで綺麗であった。小さなお葬式のパックよりも13万ほど追加して祭壇を豪華にしたが、更に追加された10台の供花が祭壇周りを豪華にしてくれた。

 親族は通夜の2時間前に集合する。式場内には故人がお風呂のようなケース内に寝かされており、最後の身支度をする。おくりびとと呼ばれる係りの方が髪の毛を洗ったり、顔のひげを剃ったり、足を綺麗にしたりする。家族も途中で参加し、髪を洗ったりひげを剃ったり出来た。その後白装束の姿になり棺に入ることになる。

 通夜が始まる前に喪主である私から挨拶をさせてもらった。故人の生まれてからの人となりを語っていった。途中感情が高まり泣いてしまったが、最後まで話すことが出来た。大学同期の仲間も駆けつけてくれ、お清めの席では久しぶりに会話も出来た。

告別式

 翌日は9時30分から告別式。このスタート時間は火葬場の火葬する予約時間に影響されることを知った。火葬場はどこも混んでいて昼の11時30分くらいを設定すると逆算して9時30分開始となるのだ。火葬場で告別式をやる方は10時30分からでも大丈夫だが、うちの場合は式場と火葬場が離れているので移動時間を考えて早めの開始時間となった。

告別式では僧侶が読経した後、お焼香をする。初七日も行うので再度ご焼香する。その後、棺の中に供花で飾られていた花をひとつひとつカットし、小さくして棺の中に入れていく。故人の周りが花で囲まれる。そこに思い出の品を入れていく。その後霊柩車で火葬場に行くことになる。

 火葬場では待ち時間は40分程度。骨だけになった故人が家族の目の前に並べられ、係りの説明と共に壺に入れられる。父の骨は85歳にしては丈夫で太く、まるで50,60代の骨と変わらないと言っていた。その後、また式場へと戻り、親戚一同で精進落としと言われる会食となる。親戚の方々と個人の思い出話をしながら食事をする。父は写真の中で笑顔でこちらを見てくれている。ちょっと前まで一緒にご飯を食べていた父が居ないことが未だに信じられない。安らかな気持ちで天国で大好きな社交ダンスをしながらゆっくり過ごして欲しい。合掌。

告別式の翌日からの動き

小さなお葬式パックの中に簡易型の仏壇がある。段ボールで組み立てて上から白い布を被せるようになっており、簡易版であるが、遺影を立てる台、ろうそく立て、線香、マッチ、鐘など一通りが揃っている。帰宅するとそこに遺骨と遺影を飾り、線香を立て祈祷する。

ちなみに通夜と葬儀の料金だが、約120万程度。もっと安い料金がパック料金になっているが、祭壇の花や棺、料理などのグレードを上げたため高額になった。通夜のお清め時の料理や精進落としの料理が見た目も味もよく安堵した。グレードを上げて正解だった。火葬場に払う金額が約10万円。お経をあげてくれる僧侶へのお布施が20万円(通夜、葬儀、お車代、食事代など込み料金)となっており、まとめると約150万円程度となる。

翌日からやることリスト

〇参列して頂いた方の名前、連絡先などをリスト化
〇区役所にて葬儀支援金の手続き、死亡届(これは葬儀社が死亡した翌日に提出してくれた)
〇年金事務所への連絡
〇個人の預金通帳や保険、カード類、公共料金などの引き落としチェック
〇仏壇の購入
〇デパートで供花や香典のお返し品の選定や郵送(これは後で四十九日後でいいことを知る)
〇霊園と打ち合わせ。墓石の種類や形など
〇陸運局で車の名義変更
〇四十九日法要の手配
〇知らる事が出来なかった方への連絡
〇銀行へ口座凍結の連絡
〇入院していた病院医師との面会、事情説明
〇携帯電話の解約
〇除籍された登記簿謄本の入手(これは死亡届提出から10日後くらいに出来る)
〇相続税申告が必要かどうかの可否。
〇遺産分割協議書の作成作業

などなどやることが沢山ありすぎて大変な作業となる。親が亡くなると大変だと聞いていたが、これほどまでに大変だとは思わなかった。上記のリストではまだ不足していることが多々あるとは思うが、一つづつ片づけていくしかない。

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